「帰った方がいいわよ。どうせいずれは帰らなきゃならないワケだし。ここでこうしてても、ジメジメと遠い過去を思い出すだけ」
諭すような綾子の言葉に、詩織は一度瞬いた。
「そうね」
そう答え、トンッと缶を机に置いた。
「さすがに風が強いな。寒くはありませんか?」
振り返って問われ、美鶴はブンブンと首を横に振った。
夜の臨海公園。入り口に車を止め、運転手を残して二人で歩いてきた。辺りにはカップルがちらほらと。
なんか、場違いだよなぁ。
なんとなく肩身の狭い思いをしているのは美鶴だけだろうか。数歩先を行く霞流慎二が振り返ったまま優しく笑いかける。
「十代の女性には、少々退屈な場所だったかな?」
「いっ いいえぇ!」
今度は両手もつけて否定する。同時に羽織っていた霞流の上着を一瞬離してしまい、飛ばされそうになるのを慌てて掴みなおす。
公園に入った時、霞流が無言で背後から掛けてくれた。そのあまりに自然な紳士ぶりに、美鶴はお礼すらまともに言えなかった。
借り物なんだから、海に飛ばすワケにはいかないっ!
必死に上着を掴む美鶴に、霞流はふふっと柔らかい声を出した。
もぉ! 雰囲気ブチ壊しだってばっ!
そんな美鶴の心情を知ってか知らずか、霞流は白く長い指を耳元で髪に絡ませ、恥かしそうに眉を寄せる。
「すみませんね。京都の時もそうだったが、僕はどうも年寄り臭い発案しかできないようで」
「そんな事ありません。すごくっ」
「すごく?」
「う…」
すごく、ロマンチックで素敵です。
などとは小っ恥ずかしくてとても言えない。
「す… すごく、落ち着きます」
しどろもどろになんとか答える仕草に苦笑し、美鶴が横に並ぶのを待って再び歩き始めた。
「会いたいんです」
それだけを繰り返す美鶴の言葉を、霞流は大してゴネもせずに聞き入れてくれた。待ち合わせをして車に乗り込んでも、何一つ詮索しようとはせず、夕食に誘ってくれた。
こんな格好で霞流さんと夕食かぁ。
ふだん家ではTシャツからジャージ。雨に濡れて家に帰り、シャワーを浴びた後にはいつものジャージに着替えるつもりでいた。だが、洗濯機の中に放り込まれた服はジットリと湿り、とても着られたモンじゃなかった。
洗濯したら干せよ。
無言で母にグチりながら、仕方なくジーパンと長袖のTシャツを引っ張り出してきた。
ジャージよりはマシかもしれないけど、この恰好だってかなり場違いだよな。
幸いなのは、雨が止んでいたこと。もし降っていたら、びしょ濡れで霞流と会うことになってしまっていたし、とても一緒に食事などできなかっただろう。
洋食だった。フランスかイタリアか、大方その辺りの食事だろう。個室に案内され、最初はかなり緊張した。
雰囲気も、霞流と二人だけという状況も、そして、どのように霞流に説明すればよいのだろうかと、そんな事ばかりを考えて、最初の二品は味も覚えていない。
美鶴の突然の電話について、霞流はまったく触れなかった。まるで事前に食事をする約束でもしていたかのようだった。
急に寒くなってきましたね、などといった他愛のない話にはじまり、だいぶ髪の毛が伸びてきましたね、と言いながら笑ってくれた。
澤村優輝の事件については軽く触れてきたが、体調は回復したか? とか、怖い思いをしたね、などといった気遣いがほとんどで、澤村や里奈について深く聞いてくる事はなかった。
やっぱり霞流さんって、紳士だなぁ。
徐々に緊張のほぐれていく心内で、美鶴は感心した。
携帯が何だとか、京都がどうしたなどとしつこく食い下がってくる聡や瑠駆真とは大違いだ。
いいな、こういうのって。
デザートをパクリと口に突っ込みながら、ぼんやりと思う。
でも、まさかこういう展開になるなんて。
思えば、朝起きた時には、まさか霞流と夕食を共にする事になるなどとは、まったく予想もしていなかった。
父の素性を調べたくて岐阜へ行ったのが今日の始まり。ただ父の居場所が知りたかっただけなのに、まさに予想もしない事実を知らされ、戻ってくれば瑠駆真と遭遇。部屋に招き入れる事になり、そこでも瑠駆真から信じられない言葉を聞かされた。
なんか、とんでもない展開になってる。
自ら踏み出した一歩なのに、思った道とは全然違った。こんな展開が待っているとは思ってもいなかった。 岐阜へ行く行動に、瑠駆真と一緒に帰宅したという行動に、こんな仕掛けが隠されていたのか。
しかし美鶴は、結果にあまり不満は感じない。
生い立ちを聞いた時や瑠駆真に迫られた時は、どうしてこんな事になってしまったのだろうと、自分の行動を恨みすらした。だが、こういう結果が待っていたのかと思うと、悩んだり混乱したりして受けた疲れなど吹き飛んでしまう。
こういうのを、幸せって言うのだろうか?
君を、幸せにしてあげる。
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